福壽石尊神社のゆかり

私達の住んでいる西登戸に、石尊神社があります。

毎年子供みこしが出るときには、この石尊神杜にお参りし、無事を祈つてから出かけますので、子供たちの中にも、その場所を知っ.ている人も多いと思います。

昔からこの地に住んでいる年配のかたがたの中には、今でも時折りお参りしたり、清掃をしたりしてくれる方もいます。

皆さん、この石尊神社は、一体いつ頃、どんな縁があってこの地に建てられたのでしょうか? その「ゆかり」について述べてみたいと思います。

 

田村正顕(吉右衛門)と言う人

石尊神社のゆかりを知るのには、まず田村吉右衛門さんと言う方のことを知らなければなりません、何故かというと、この方と石尊神社との係わり合いが極めて強いからです。

では、吉右衛門さんの話から始めることにいたしましょう。

田村吉右衛門さんは、江戸時代(一七七八年)宮野木の能勢家に生まれ、後に穴川を開発して、鴫家を起こし田村家を名乗りました。

吉右衛門さんは、とても立派な方で、四十六才の時、文政七年(一八二四年)当時千葉町、登戸村、寒川村、黒砂村などが草刈りばとして、共同で使っていた、穴川の原野を開墾しようと考え、その時の領主掘田相模守に開墾することのお許しを願いでました。

そして、文政九年(一八二六年)に許可が出ました。

いよいよ開墾が始まり最初のうちは順調に進んだのですが、高台で、水に恵まれず、土地も痩せていたので、作物が思うようにできず、せっかく集まってきた農家の人存も去っていくありさまでした。

「死んでしまうか穴川へ出よか

 死ぬるにゃましだよ出るがよい」

こんな歌が流行ったといいますから当時のことが想像されます。

田村吉右衛門さんは、何とかして回復させようと思い、原野を区分して松や杉を植えて防風林としたり、大小の道路を作ったり、井戸を掘ったり、移住者に居住地を分けてやったり、農機具を与えたりし、自分も朝暗いうちから、夕方遅くまで、鍬を奮い、回復のために頑張ると共に盛んに開墾の大切さ、有利さを述べてみんなを誘いました。

その結果、移住してくる人も増え、次第に盛り返してきました。

天保七、八年に全国大飢錨があり餓死する人も多くでましたが、穴川の移住者は、少しも障りがなく、凌ぐことができました。

その後ますます手入れを善くし、素晴らしい開拓地になりました。

そして弘化二年(一八四五年)田村吉右衛門さんは、領主楓田相模守からご褒美をいただいたのでした。 

 開墾のお許しが出てから一九年経ったときのことでした。

 

参考文献 千葉市誌 明治44年発行

文  鈴木富治(平成2.3年度 自治会長)